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[S17]指令中枢の欠陥(自我の統括性と欲望の束)

   [S4]から前回の[S16]までで、『認識中枢の欠陥』の問題に一応区切りをつけ、今回から、人間存在の根本的本質的欠陥のもう一方である『指令中枢の欠陥』の領域の問題に入ることにする。
 
  煩悩という言葉からまず連想されることといえば、欲望ということであろうか。欲望は、その実現・充足の方向に動くことを指令する。しかし、我々は、自己の欲望故に悩み煩う存在でもある。まことに、人間とは,『無数の欲望の束』のようなものである。そして、この『無数の欲望の束』を統括する「司令官」的立場に位置するのが、『自我』である。『自我』は、この私という人間の中心に位置し、良くも悪くもこの私という人間の動きを最終的に決定づけ、あるいは特徴づけている。少なくとも、無明煩悩底の我々の場合には、そのように考えて差し支えないと思われる。

 《注》 『欲望の束』というのは、もともとは、宗教情報カテゴリーの中にある、私の師・
    和田重正先生の言葉であり、見方である。


 既に我々は、『認識中枢の欠陥』に位置づけられる論稿の中で、自分の真実相というものを、曲がりなりにも捉えた。それは、存在論的水平軸の次元で言えば、『無限の宇宙』、本来的垂直軸の次元でいえば、『永遠のいのち』とでもいうべきものを自己の中に宿している自分、あるいは、そういうものと絶対矛盾的に自己同一している(即非的関係にある)自分というものであった。これは、私の概念で言えば、『第二の意味における仏』であった。そして、それこそが、『実相としての自分』、『あるがままの自分』であった。

 このようにして、『実相としての自分』、『あるがままの自分』というものが掴めたのならば、あとはそれに即して生きていけばいいようにも思えるわけであるが、実際にそれで事が済むかというと、そうはいかないのである。なぜなら、我々は自己の『指令中枢』にも根本的本質的欠陥をかかえており、そしてむしろこちらの欠陥の方が深刻な問題を作り出していくからである。

 そこで、この自我、ないし自我意識の根本的特徴をまず、捉えてみよう。

 第一は、既に述べたように、中枢の統括機能である。無数の欲望という中枢機能を
矛盾しないように、統一的にまとめ上げる。

 第二に、『我』と『我でないもの』を区別するということである。これは、認識中枢の分別知の作用と複雑に絡まりながら、このような区別をしているものと思われる。

第三に、このようにして区別した『自分が、なによりも大切である』、と思っていることである。その結果として、人間には、根強い自己中心の性向がある。

このような根本的特徴を有する自我意識が、自己の中にある様々な欲望を統括しており、それが私という人間である、ということになっている。

 そこで、まず本稿では、このうちの様々な欲望を大ざっぱに概観的に観察しておき、その上で稿を改めて自我の問題性を論ずることにする。

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   欲望を扱う場合、私は、欲望があることがよいとか悪いとかいうような価値評価は一切交えないで、欲望というものを観察していくことにする。
  また、私は、宗教実践的にしか,、ものを見ないので、そういった角度から見て、大ざっぱで充分なところを微に入り細に入り論ずる性格ではない。不要なところにはできるだけ労力をかけず、必要充分なところ以上には立ち入りたくない、ということである。

  欲望の中で、最も基礎的な欲望である、食欲・性欲・物欲などは、特に説明をくわえる必要もないだろう。それ以前の欲望もある、といわれればそれもそうだろう。どういう次元で、どういう分類で取り上げても、それはそれでよい。

 問題になるのは、大脳の発達した人間特有の高次の欲望である。権力欲などは、他の動物にも確認できるかもしれないが、名誉欲などになってくるとさらに抽象化していき、一般的に名前がつけられないものも出てくる。たとえば、よく『面子(メンツ)』がたつとか、たたないという場合の、『面子(メンツ)』というのは、名誉欲というより、プライドに近いだろう。プライドというのは、何欲といったらよいのか。しかし、このあたりも、人間の欲望の一種であることには変わりないであろう。また、無欲でありたい、というような欲望ですら、あるわけである。やりがいのある仕事、という場合のの、やりがいを求める欲望というのは、一体何と命名したらよいのだろうか。
 いや、命名の仕方が問題なのではない。高次の欲望になればなるほど、それは我々自身にとっても、欲望であるとは意識されない、我々はそれを欲望であると思っていない、という問題があるのではなかろうか。例えば、悟りたい、と思う我々悟り型の人間が誰しも思っていることについて、我々は明確にそれを欲望として意識してきたかというと、普通はそうではないと思う。価値観などという言葉で表現されるようなものも、角度を変えれば、それは何らかの欲望を反映したものである、ということがいえると思う。我々の中枢から発せられ、我々に何らかの意志を発生させるようなものは、ことごとく欲望としてとらえることができるわけである。

 とにかく、『欲望の束』という場合には、そのように我々が自分では欲望であるというように意識していないようなものまで含まれている、ということをまず確認しておこう。そして、このように『欲望の束』をとらえてみると、それが我々の「いのち」あるいは「生」の内容である、と思われてくる。

 次に、欲望間の関係を見てみると、単独で車が欲しいという物欲が、ある一定の強さであったとする。しかし、最終的にその物欲は、他の欲望との関係で最終的には変容を受けるものである。例えば、他方で「鈴木大拙全集」も欲しいから、新車のクラウンではなく、中古のカローラにしておこうか、という具合にである。あるいは、足腰を鍛えるために(これも何らかの欲望)、車を持つのはやめよう、ということもないわけではない。
私の師・和田先生は、無数にある欲望が混じり合って、綾のように作り上げられるバランスが、その人の人柄になるのではないか、というようなことをいわれている。

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次に、ここで取り上げておくべきことして、『貪(むさぼ)り』『執着』『囚(とら)われ』『こだわり』という問題がある。これは、欲望が何らかの形で関連していることは確かであるが、いずれ取り上げるであろう唯識(ゆいしき)などでは、それなりの位置づけがされているのかもしれない(末那識=自我の第四の特徴と見るべきか?)。
 とにかく、欲望というものが、このような形での現れをし、またこのような形で捉えられる場面もある、ということだけを意識しておこう。

最後に、我々の欲望が広い意味での感情に形を変えて現れるという局面がある、ということを押さえよう。感情がどのようなものであるか、ということを私は一度も考えたり、追求したこともないので、ここでは素朴な意味で、ごく普通の意味で、感情というものを考えているだけである。
 例えば、一般にマイナスイメージの感情を上げてみると、不平・不満・不安・絶望・恐怖・焦燥・嫉妬・憎しみなどがある。
 これらのマイナスイメージの感情は、一般に欲望が、何らかの障害のために実現されていない場合、あるいは実現されないであろうと思われる場合におきるものだと思う。
 例えば、自分がもっと評価されたい、と思っているのに、周りはまるで評価してくれない、ということであれば、そのことに対する不平・不満の感情が起こることになる。逆にそんな欲望が全くないならば、こういった不平・不満の感情がおきるわけがなくなる。

そして、これとは逆に、一般にプラスイメージの感情というのは、自分の欲望が実現される場合に、それに付随して起こるということがいえるわけであり、同様に全く欲望がなければ、そういう感情が起こることもないことになる。

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 私が、従来宗教との関係で意識してきたのは、この程度のことで、特にそれ以上につっこんで何か問題にしなければならないことはなかったと思う。ただ、ここにのべたことを日常の場面場面において具体的に自己の内面の観察に用いるということは、宗教の道筋を歩む我々にとっては極めて重要なことであると思う。

 そして、我々は、あの親鸞上人が、類い希なきびしい自己観察をされ、自らを

  『こころは、蛇蝎(じゃかつ・だかつ?=へび・さそり)のごとくなり。』

といわれ、

  『清浄(しょうじょう)のこころは、さらになし。』

とまで言われたことを、心に留めておこう。

《注》 蛇蝎を『じゃかつ』と読むのか、『だかつ』と読むのか、未だに確定しておりません。

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        また、私は、宗教実践的にしか,、ものを見ない....

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[SC17-1] 投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

    !うーむ(?)

[SC17-1N]
投稿  西方法界  2007年8月15日

ここは、・・・欲という名前ではいわれていないものでも、欲望としてとらえなければならないものがある、ということだけ述べて、その他はできるだけ記載を省こうとするためのイントロで、あまり深い意味はなく書いたのですが、変と言われると変ですね。

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              [コメント対象事項]

ここにのべたことを日常の場面場面において具体的に自己の内面の観察に用いるということは、宗教の道筋を歩む我々にとっては極めて重要なことであると思う。

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[SC17-2] 投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

      賛成!

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[コメント対象事項]

   形なきものから形あるものへの展開
   
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[SC17-3-1] 投稿 求道者 | 2008年5月 1日 (木)

今度は別の角度から説明しましょう。これは形態と無形態と言われる視点からの解析である。宇宙は形なきものから形あるものへの展開と説明され、無から有への展開表現である、従って無を有で表現しようとすれば無限の存在物で満たすしか方法がない。だからこの現象界は決して同じものが無く異なるものが無限に存在する。そして重要なのは形はその形を留めようとする力が働く。これが現象界の欲望の源泉であり、自己保存、自己繁栄への原動力である。しかし人間だけが形あるものと形なきものとの複合体であり、形なきものは保存や繁栄の欲望は必要なくそれ自体で満たされている。その両方から引かれることが人間の自己矛盾の源泉である。聖書が説明するように人間は当初はそれを知っていて、現象界の肉体や事物には束縛されていなかったが、エデンからの堕落に象徴される事故、原罪が、人間の自由意志によって発生した。それ以来形なきものである、囚われた自我と囚われのない真我との自己矛盾的苦闘が始まったのである。

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[SC17-3-1N] 西方法界|2008年5月8日(木)

仏教では、悟った人からの見え方を「本分上」の表現、未到達者からの見え方を「修証辺上」の表現として区別し、その両方を扱います。
「梵」から「我」が流出してくるという感じですね。ところが、何を間違ったか、自己執着が生じてしまった。この自己執着が隔たりを作る。この意味では、自我という表現は使わないものの、仏教に似ていますね。本分上の表現としてはわかります。

しかし、自己執着がなくなれば、「隔たりは全く解消する」となるのでしょうか。仏教では、例の大燈国師の『億劫相別れて、須臾も離れず。尽日相対して、刹那も対せず。この理、人々これあり』というように、「対して、対せず」という隔たりは、悟ってもどこまでも続くということだと思いますので、ここが違いますね。ヒンズー教では隔たりが解消してしまうと、もはや宗教的実存という問題も消えてしまうのでしょうか。それとも、宗教的実存ということは何らかの形で残るのでしょうか。ここは、滝沢(克己)先生のいわれる神人接触における「不可逆」が絡んでくるところだとも思われるのですが。

《そして重要なのは形はその形を留めようとする力が働く。》

はい、はい。「有(形)」があるとそういうことになると思います。といって、ない(「無」)といって無視しては、人間ではなくなってしまう。そこで、「あるでもなく、ないでもなく・・・」、道元さんの「いとうことなく、したうことなき」。
 ですから、今しているような宗教的理解(「有」であり、「形」である)というのも、「あるでもなく、ないでもなく・・・」。私も、悟り型の末席にいる者として、心しなくては。

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[SC17-3-2] 投稿 求道者 | 2008年5月10日 (土)

私は無宗教なので特にどこかの宗教の用語にこだわる必要もなく、ただあらゆる宗教の融合可能性の視点で西方法界さんの文面を研究させていただいている次第です。だから色々な宗教の言葉が私から出ることになりますが、慣れてくれば西方法界さんの用語か、現在用語を使用していこうと思っていますので失礼のほどご容赦下さい。

まず、「自己執着がなくなれば、隔たりは全く解消する」・・・いいえ、それだけでは解消しない。
それは第一前提条件であるだけであるが非常に重要な条件である。

執着とは、認識中枢に誤認があるから発生し、これを理性的論理と空観の助力を使い消滅に至らしめることが認識中枢の是正であり、これが釈迦の説く八正道そのものである。
認識中枢から曇りである無明を消し去っただけであり、五感である五真、色から解放されただけであり、それだけでは無色(無形)の界と融合できない。
それは色界とは有限的だからであり、無色とは名(概念)を越える界だからである。
だから次に認識中枢自体を捨てる必要があるのである。

はて、指令中枢は?これが問題である。

指令中枢とは乱暴に言ってしまえば、意識、意志であり、思念を発動させ方向付けする作用的動因であり、
実は元々色がないものであり、色界にも無色界にも流れる一本の筋である。
別の言い方をすれば指令中枢は上である無色界から色界に延長しているだけのことであり、当然消滅させるものではない。

では本当に指令中枢に誤作動があるのか?
結論から言えば、指令中枢の誤作動は無いと結論できる。
我々の人体を稼働させているのは指令中枢である、心臓の動き、人体生理機構には恐ろしい英知的制御が必要であるが指令中枢は二四時間休み無く狂い無く制御しているが認識中枢は関与していない。

ではなぜ病気になるの?
それは認識中枢、五真の働きが乱れ妨害するからである。
だから指令中枢に対抗し妨害するのは認識中枢である。

認識中枢を制御した後、それを消滅させ、認識作用を越えて、本源からの指令中枢そのものだけを辿り、
本源と溶け合うことが最初の悟りである。

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[SC17-3-2N] 西方法界|2008年5月12日(月)

認識中枢の方は、とりあえずおっしゃることでよしとして、詳しくは私の考えで後日にしかるべきタイミングで改めて取り上げることにしたいと思います。

指令中枢の方ですが、これには不随意的指令中枢と自由意志に関係する随意的指令中枢があると思います。
不随意的指令中枢は仏智として上記説明で納得します。
随意的指令中枢も「最初の悟り」としては、それでいいかと思います。
その後の随意的指令中枢の問題は、やはり後日に残しましょう。

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[SC17-3-3] 投稿 求道者 | 2008年5月10日 (土)

西方法界さんは、「有(形)」があるとそういうことになると思います。といって、ない(「無」)といって無視しては、人間ではなくなってしまう。そこで、「あるでもなく、ないでもなく・・・」、道元さんの「いとうことなく、したうことなき」。ですから、今しているような宗教的理解(「有」であり、「形」である)というのも、「あるでもなく、ないでもなく・・・」。私も、悟り型の末席にいる者として、心しなくては。・・・・
と記されています。

まことにこの辺が難しいですね。当然「無」とは「何も無い」ということではなく、むしろ逆にすべてがそこから出てくる源泉であるから「我々の認識中枢で(有ると)認識できるようなものが無い」ということであり、だから悟るためには認識作用を滅する必要があるのである。

例えばテレビの無かった時代の人々にタイムワープして、テレビを見せたり、彼ら自身の録画を見せると、全く理解できず、テレビの中に存在物があると認識する以外はないだろう。テレビの画像は幻影で実相としては無であるが、彼らにとっては有である。しかし更に言えば、その画像は無ではなく、その中で電気と物質の変化があるので、別の意味での有である。

このように有と無とは、その「存在のあり方」という視点で見れば、どちらにもなり得るので、当時の禅僧の方々は当時の言葉で存在のあり方を、そう表現したのだろうと思われる。

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[SC17-3-3N] 西方法界|2008年5月12日(月)

私は、これは『中枢の死の結果として、中枢はその「一次的・最終的」支配力を手放し、復活後は自己の限界性をわきまえた上で「二次的・従属的立場で活動するようになる』姿であるという捉え方をしております。すなわち、復活後の新たなパラダイムはこういうことになってくるというように。

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