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[S16]認識中枢の欠陥を実感する

 表題にあるように、ここで『認識中枢の欠陥を実感する』作業を、私のたいへん大ざっぱな理屈でやってみようというのが、この稿の目的です。とにかく、相手は自分の『中枢』であり、しかも欠陥のある認識中枢なのですから、可能な限りその自分の欠陥を押さえておこうということであります。
 大切なのは、どの程度にこの点に意識的であり、かつできるだけ深刻にその実感を持っていられるかということになります。内容が大雑把だということは、自覚という最終局面に向けては、多少綿密にやってみたとしても、所詮は五十歩百歩だと思われるからです。

  仏教には、お釈迦さんが説いたとされる『縁起』という説明があります。
私は台風12号の例[S6]を使って、即非の論理を説明しました。そこでは、対象論理的な見方を取り入れており、それだからこそ、我々にも何とか理解が追いついて、その結果として即非の論理を理解することができました。

 ところが、その際に台風の周囲の一切のもの(海・地球・太陽・・・)をなくしてしまった時台風12号はどうなるか、という最も重要な判断において、我々の頭の中では、『縁起的な感覚』で、台風も消えてしまう、と普通は考えているはずであります。これは、対象化したためにそう理解できたのです。
  しかし、この宗教の窓で設定した次元([S9])から、『空』をめざす次の段階は、『縁起』では乗り越えることはできない。即非の論理(般若)によらなければなりません。つい、縁起は理解しやすいので、こちらに傾きがちですが、このことをよくよく頭に叩き込んでおいておくことが、極めて重要です。これは、またこの宗教の窓の最後で触れることになると思います。

 そのことをよく承知した上で、ここでは我々は、認識中枢の欠陥を実感するために、ちょっとこれを使わせてもらうことに致します。

 『鳥が鳴いたので、目がさめた。』というのは、自然にわかります。
しかし、『地球が自転しているから、目がさめた。』というのは、ちょっとおかしいと感じます。『地球が自転していても、目がさめないでずっと寝ていたのですから。』

 それでは、『地球が自転していなかったとしたら』、どうだろうか。その場合にはそういう宇宙バランスになるための総合事情というものは、現在とまるで違うはずです。そもそもそんなバランスになることはありえないかもしれない。しかし、一応そうなったと仮定して、そのとき、自分というものは、果たして存在しているでしょうか。たぶん、自分も存在してはいないでしょう、地球自体がなくなっているか、あっても現在とは全く異なる環境になっているでしょう。それなら、寝ている自分、目がさめる自分、鳥が鳴く、などの事情もなくなってしまっているはずです。そうだとしたなら、、『地球が自転しているから、目がさめた。』というのは、なるほどそうだ、ということになります。

  一般に、『因縁』の、『因』は直接的原因、『縁』は間接的原因とか間接的条件などと説明されています。『背景』などという言葉も私たちはよく使います。このことの背景には、そういったことがある、などという場合です。
   しかし、もともと原因に直接も間接も背景もあるのでしょうか。

 私はこう思っています。我々の認識中枢で容易に因果のつながりが理解できるものが、『直接的』と理解され、因果のつながりがあるとは思われるが、はっきりとはつかめないものを『間接的』と感じる。『背景』などは、もっと距離感が出てくる。
 しかし、宇宙というものは、『無限のバランス』であって、その一部が変動すれば、全体のバランスも変化するのではないでしょうか。その中に『直接』も『間接』も『背景』もあるのでしょうか。

 宇宙の、『無限のバランス』のほうに『直接』や『間接』の違いがあるのではなく、我々の認識中枢からみると、とらえやすい『直接』と、とらえにくい『間接』があるわけです。関係があるのに捉えることができず、『間接』とすら感じられないものも、どれだけあるかもしれない。

 そのことを裏返してみたらどうでしょうか。『無限のバランス』は寸分の狂いもなく、『無限のバランス』から、次の『無限のバランス』へと変化・流転しているのに、我々の認識中枢は、そのほとんどがわからない。それだけの巨大な欠陥を抱えながら、我々は自分の認識中枢に欠陥があるということすら自覚せず、逆にそれを信頼して、これこれの原因は、何だ、かんだ、やっている。それよりも、よっぽども非科学的にみえる浄土真宗の『お陰様』という言い方のほうが、余程正確な気がしないでしょうか。

 『お陰様』というのは、「認識中枢に映らない陰の集合体」であって、よくよく考えてみると、即非の論理の《非A》である、といってもいいでしょう。

Aは、『お陰様』であるが故に、Aである。

 日本人には、《非A》などとするより、こちらの方がわかりやすいかもしれません。

 私は、わたしではないものである。

より

 私は、、『お陰様』である。

この方が、納得しやすいかもしれません。

このことを別の角度から見ると、我々の認識中枢である分別知は、物事の無限にある
側面の内の一側面からしかものをとらえることはできないということがいえるかと思われる。一度に一側面のことしか捉えることはできない。したがって、角度・観点を変えれば他の側面でものごとを捉えることもできるわけではあります。しかし、このことは、逆に無限にある物事のすべての側面を尽くして、その物事の真実相を完全に明らかにすることはできない、ということを意味します。

 もし、それができるのであるのならば、われわれは台風12号の例において即非の論理など使わずに(=台風12号の外側にあるものを取り去って考えてみたりせずに)、たちどころに、台風12号の正体を知り得たでしょうし、また台風の内側と台風ではない外側が、『無限に複雑な入り組み方』をしているなどという感じ方をしないでしょう。
 仮に、われわれの認識中枢が、宇宙の真実相を完全に把握できるような性能を備えていたとするならば、宇宙の一切の動きを、一瞬にして隅から隅まではっきりととらえることができ、そもそも『無限』であるとか、『無限に複雑』などという感覚自体が生じないものと思われます。縁起でみたような因果の『間接的な』つながりというようなことは、すべて消え失せ、すべてがすべて『直接』かつ自明であると感じるでしょうし、そもそも『因果』などという距離のある捉え方自体をしないことでしょう。宇宙は、『無限のバランス』であるなどという捉え方もなくなってしまうでしょう。

 ところが、実際はそうではないということは、裏を返せば、我々の認識中枢の性能は、『完全な意味において』宇宙の真実相をとらえるということとの関係で言えば、根本的本質的な意味で欠陥があるのだということ、そして、その欠陥ある認識中枢で捉える宇宙の相というのは、全くデタラメと言ったら言い過ぎかも知れないが、少なくとも真実相そのものではないという意味において、『偶像』に過ぎないということであります。
 そして、我々はその『偶像』、すなわち少なくとも「真実相・実相とはいえないもの」を、そうであるとすら意識もせずに、「真実相・実相」であると思って、日々の日常生活・社会生活を営んでいるのだということになります。

 とにかく、たいへん荒っぽい理屈ですが、こんな荒っぽい理屈でもってすら、その欠陥がそれなりに指摘できてしまうほどに、我々の認識中枢=分別知というものは根本的・本質的な欠陥をもっているということがわかるということが重要だと思います。そして、そのことが、我々は無明の中に置かれているのだという実感につながり、そういう実感を持って宗教の道筋を歩むことができれば、それはたいへん有益なことである、と私は考えております。

 一応以上で、「宗教の窓」としての本稿の目的は達しましたが、そのレベルを超えて本格的に垂直軸の方向で、『空』を目指し、『自分の本当の正体』を自覚体験する([S2]参照)段階に進む場合には、この理屈はいったん忘れ、西田哲学が解明しているような問題へと進むことが望ましく思われます。
 そこにおいては、この宗教の窓とは、まるで次元の違う方向の話が展開されてまいります。いずれ、この宗教の窓でもそういったことに触れることになるかもしれません。

 なお、『認識中枢の欠陥』の問題は、今回で一応終了し、次回からは『指令中枢の欠陥』の問題に入る予定です。

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我々は無明の中に置かれているのだという実感につながり、そういう実感を持って宗教の道筋を歩むことができれば、それはたいへん有益なことである、と私は考えている。

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[SC16-1]

投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

こいつの実践的やり方が問題と言うことだね!

それは一体どうなのかな?

[SC16-1N]

投稿  西方法界  2007年8月15日

ここは、基本的心構えというだけのところで、その先は別のところで論ずることになります。

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