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[S1] 宗教は、最終的には言語化・思想化できない

『不立文字、教外別伝(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)』と言われるように、宗教は、最終的には言語化・思想化することはできない。また、思想化されたものが、一般の学問のような意味で、伝達了解されるものではない。

 宗教においては、究極的には三昧(ざんまい)、すなわち全身全霊をかけて実存的に 『そのものになりきること』が本体なのであり、『わかること』すなわち『悟ること(啓示を受けるということ)』は、論理的には『そのものになりきること』に付随してくるものである。宗教にあっては、そのものになりきったとき、それと同時ではあるが、論理的にはそれに付随して、わかるということがおのずとついてくる。心身一体として、その人の全存在とあり様(よう)が、パラダイムシフトしたとき、それに付随して、パラダイムシフトした認識がおのずとついてくる。

 論理的に先行するのは、宗教的実存、すなわち、『そのものになりきること』であるから、その意味で、『悟り』という言葉を中心に据える一般の仏教表現は、不適切だといえる。パラダイムシフトはそれ自体ドラマチックなことであるから、ついついそれをもたらした本体である、地味で、文字通り身を切る営みである『そのものになりきること』よりも、『あ、そうか。そうなんだ。わかった。』という方に、本人も、周りも目を奪われやすいことは、やむを得ないことかもしれない。

 ただ、だからといって自信をなくす必要はない。いずれ触れることになるが([S19]宗教心・本願・如来からの呼び声)、我々誰しもの中に、そこへ向けての内在的願いと内在的エネルギーが既に組み込まれているのである。『本願』という言葉の中には、「ひとつには」この意味が含まれている、と私は思う。

 逆に見れば、言語化・思想化されたものは、宗教そのものではないし、それだけでは伝わりようがないものである。言語化・思想化された宗教を読んで純粋な思考だけをいくら重ねても、決してわかるようにはならない。このような意味で、宗教的表現は、それ以外の通常の表現とは異なり、「神の御言葉」とか「真言」などといわれることになる。また、それ故に、我々にとって、宗教的表現は、なんとなく魅力的に見えながら、その実、よくわからないのである。 科学を対象とする学校的勉強は、極論すれば、頭の先っぽでもできる(これが極論過ぎることは、私にもよくわかっている)。しかし、宗教にあっては、それは全く通用しない。そのことを学校制度の中で長い時間過ごし、かつ科学的世界観万能の時代に生きる我々は、よくよく心しておかなければならない。

  しかし、全身全霊をかけて実存的に 『そのものになりきる』という、最も中心的重要性のある事柄は、それが実質的であればあるほどに、最も個人的な次元の深奥で進行する以外にありようがない事柄である。それ自体を、公共の場に持ち出すことは、そもそも不可能である。

  他方、 『そのものになりきる』ということが宗教の中心に置かれなければならないことだとしても、そのことは宗教を言語化・思想化することを全く無意味にするものではない。少なくとも、宗教を、公共的な場に持ち出そうとするならば、何らかの意味で言語化・思想化することが不可避的に必要になってくる。なによりも、それは方向性を暗示・示唆する道しるべにはなる。、『そのものになりきること』が決定的に重要だといっても、それは相当進んだ段階の話であって、初心入門時に近いときほど、手がかりを、言語化・思想化されたものの中に求めざるを得ない。これを裏返せば、いつまでも、言語化・思想化されたものの中だけにうろうろし続けることは、初心入門の段階をなかなか卒業できないでいる、ということになるわけである。が、それはともかくとして、このような位置づけををよくよく承知した上で(実は、これは先に行って始めて承知できるものなのだが)言語化・思想化することによって、宗教を、公共の場にもちだすことは、必要なことでもある。

 同じ事の繰り返しになるが、言語化・思想化された宗教とは、こういった意味で宗教の残骸といえば残骸である。しかも、初心入門に近くなればなるほど、その宗教の残骸を手がかりに進まざるをえない立場にある。さらに、そういう立場にある段階ほど、『看経の眼(かんきんのめ=まなこ?読み方私も曖昧)』(言語化・思想化された宗教の真の意味を理解する力)がないのである。事柄の性質上、これは避けられないことなのだ。それはそれでよいのだ。誰だって、始めはみんなそういうところから出発して、通り抜けていかざるをえないのだ。『狭き門』から入るしか道はないのだ。逆に言えば、言語化・思想化された宗教は宗教で、つらい使命を背負わされているのだ。自らの無力さを承知しながら、割に合わない役割を引き受けて、働き続けているのだ。そのような位置づけを、よくわかろうがわからなかろうが、始めに確認しよう。

 このブログに立ち止まられるであろう方は、どちらかというと、「信の宗教型(信仰型)」タイプよりも、「覚の宗教型(悟り型)」タイプでしょうが(私がそうだから)、そうであればあるほど、宗教にあっては、『そのものになりきること』、すなわち宗教的実存ということに決定的重要性があり、、『わかること』はいかなる意味においても付随的・補充的な位置づけでしかないということ、このことを充分に認識した上で(願わくば、そうなるべく、お互いにがんばろう)、さあ、言語・思想の世界に立ち入ることにしよう。

《もう一人の私》 ”ばかいうな、もうとっくに入っているではないか。それになんだ、こんな大学入試の現代文の問題みたいな文章書いたって、書いた自分だって読んでみたらよくわからんだろうに。”

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