[K18] 西方法界、長年の誤謬に愕然とする
仏教の教えは、以下の三点に集約される、というようなことをどこかで聞かれたことはないでしょうか。
① 諸行無常
② 諸法無我
③ 涅槃寂静
私もかなり初期的段階で、どこかで聞いて、あるいは読んで、こうして覚えています。(改めて調べてみると、三法印というのだそうです。)
従って、そう見ている限り、仏教的には誤りはないのだと、当然の前提のごとくして、長年にわたりそう思ってきました。そして、そのことは疑う余地すら感ぜずに今日に至りました。皆さんはいかがでいらっしゃいますか。
ですから、①はいいとしても、②については『宗教の窓』において、[S5][S6]などで、台風12号の例と「一即一切、一切即一」・即非の論理などを使いながら、存在論的に(現象世界の見方として)考察を進め、ここでいう「諸法無我」の理解に至り、「現象世界の見方としては」そこで、一応「実相」というべきものが把握できることを論じました。そう書いてはおりませんが、これが、いわゆる「法空」です。
そして、それを踏まえながら、やがて般若心経で通常問題にされる「空」(自分自身が空になる、という場合の空)、すなわち「人空」に眼を向けていく、という方向を見ておりました。「死と復活」を書き終えた現段階が、「法空」から「人空」への境界面というか、実は「死と復活」自体が、実は「人空」に足を踏み入れてしまっている、という結果になってしまっているわけですが、問題がどこにあるのかというと、その場合でも、②諸法無我というのは動かざる仏教的真理である、というように、ずっと思い続けておりました。いや、それはある意味では、そうなのですが・・・・。
ところが、ある方の御指摘で、阿含経を参究中なのですが、それはとんでもないことだ、釈尊は「無常なるもの」「無我なるもの」から『離れなさい』、それは移ろいゆくものであって、「①無常なる諸行、②無我なる諸法」のなかに留まっていてはならない、といっておられる、ということを、阿含経で明確に繰り返し、そう説かれている、それが最重要ポイントになっているのを確認して、現在愕然としております。
すなわち、「無常なるもの」「無我なるもの」であるがゆえに、それに囚われること(執著すること)が「苦」になるのであって、それ故一切の「無常・無我なるもの」に対する執着から離れなさい、「無常なるもの」「無我なるもの」は、色受想行識の五蘊として立ち現れているが、それこそが滅尽の対象なのだ、というようにつながってきております。
それが、般若心経の冒頭につながることになります。すなわち、我々が空ずるべき対象としての五蘊とは、そのような『無常・無我なるものとしての』色受想行識である、ということを明確に認識していなければならなかった、ということになります。
① 諸行無常
② 諸法無我
すなわち、この二つは、そこに留まるべき仏教的真理ではなく、そこから離れるべきものを捉え、その範囲を確定するための仏教的真理である、ということを明確に認識しておく必要があるということになります。ないしは、諸法無我は、中間的途上的段階での真理であるに過ぎないということです。ですから、① 諸行無常② 諸法無我である、ということがわかった、というところで止まってしまってはダメなのであって、だから、無常・無我として捉えられたものから離れなさい、というところまで続けて言わなければなりません。
諸法は無我であるとか、自性がないとかと言いっぱなしにされるだけで、そのことがわかったならば、諸法が無我であることこそが、我々の苦の原因なのであるから、そこから離れなければならない、離れなさい、というところまでセットにして指摘する記載にいままで一度も出会わなかったというのも不思議です。
[注]
色界から無色界に入るためには、明確に「無我なる諸法」から解脱しなければ
ならないということになる。
それ故に、逆に言えば、無色界とは、色(物質・肉体)の繋縛(束縛)から
解放された(解脱した)受想行識だけの世界である、ということになる。
とにかく、それだったら、最初に掲げたような三点を並べて、仏教はこの三点に要約できる、などと言うことは、おかしいですね。もっとも、この三つのキーワードを含めて、正しい意味に作文することはできますが、文なしでキーワードだけ並列するのは、やっぱりおかしいです。
私だけならいいのですが、私と同様に理解されてきた方、ないし、そこを曖昧にされてきた方は、再点検をお奨めいたします。私は、もう一度、原点からやり直しです。
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[後記]
この点に関し、冷静に眺め返してみると、大きな枠組みが関係していることに思い至りましたので、ここにもう一度整理をしておこうと思います。
菩提達磨がどういうルートで中国にやってきたかにはかかわらず、禅宗は大きく見れば、北伝の大乗仏教に属します。他方、私がここで参究している阿含経は、南伝の原始仏教経典です。
阿含経では、釈尊直説とされる、十二支縁起が説かれております。これを読むと、そこに説かれている縁起とは大乗仏教においていわれている縁起とは大いに異なるものがあります。
釈尊は、決して現象界一般の説明として縁起を持ち出しては『いない』ということが重要です。その点については『何も言っておりません』。
反面、十二支縁起を説くに当たっては、苦の集積が生じる連関と、その苦を滅尽するための連関のみに限定されております。これは、大乗仏教においていわれている縁起では、『到底理解の視野に入らない内容のもの』であって、これを内容的に大乗仏教の位置づけに当てはめると、宗教上の根底を扱う『般若』の部分に該当してくるものと考えられます。
他方、大乗仏教では、縁起・無我の概念が、大乗性の問題と不可分に絡む形で、『抽象化・一般化されました』。そして、縁起と無我は、華厳経に至って、理事無礙法界における相即相入・帝釈網・重々無尽縁起として、さらに精緻化されて行ったというように理解されます。
そこで、大乗仏教の世界で言われる縁起のイメージで、釈迦は縁起を説いた、ということを理解すると、『たいへん的外れ』なことになります。
私は、長年この的外れのイメージの中に置かれていたのであり、そのことと自分は大乗仏教の中にいるのであるから、敢えて南伝の原始仏教経典に手を出す必要はないという考えが重なり合って、そちらの方向には極めて無知・無関心であり、法句経をチラッと覗いた程度でそちらの方面とは接触が一切なかった、という経緯になっていた、と考えられます。
しかし、大乗性の問題をひとまずはずしてみるならば、大乗仏教が形而上学(?)の彼方にあるような抽象的かつ難解な表現で描いている般若教典の領域を、釈尊は阿含経を通して、『分別知をもってして極めてわかりやすく理解しえる』論理的表現で、的確に描き出しております。これは、我々が普通に触れるいかなる大乗教典にも見られない性格のものです。極端な言い方をすれば、普通の学問的な本を読むのと全く同様な読み方で入ることができます。なによりも、これに目を通しておくことで、膨大な回り道をすることが避けられると思われます。
その意味で、大乗仏教の中にいる我々でも阿含経は必読の経典のように感じました。誤解を恐れないで大胆に表現するならば、阿含経は般若心経を分別知で的確に理解させてくれる最良の教科書である、というイメージの経典です。
[後日注]
ダライラマ著「般若心経入門」を読んでいたら、こう書いてありました。
「パーリ語経典に書かれている教え(西方注・・・上座部仏教=小乗仏教)を自らの実践の土台に据えることなしに、自分は大乗仏教の信徒である、と言ってみても、それは意味がないのである。」(同書P.72)
また、華厳経十地品(いわゆる十地経)の第六現前地においては、釈尊の十二支縁起が深く観ぜられている。
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[KC18-1-1] 投稿 洲崎 清 | 2008年7月 1日 (火)
斜め読みですが目に付いたので、、、
>釈尊は「無常なるもの」「無我なるもの」から『離れなさい』、、、
>諸法が無我であることこそが、我々の苦の原因なのであるから、そこから離れなければならない、離れなさい、、、
誰が離れるのかな?
そことはどこ?
[KC18-1-1-N] 西方法界 | 2008年7月 1日 (火)
あ、洲崎先輩。ヤフー掲示版の方でもいろいろお世話になっております。
このコンテクストですと、応答は次のようになります。
《誰が離れるのかな?》
誰もいませんが・・・。
《そことはどこ?》
五蘊。
え、無色無受想行識ですって。
はっはっはっ。そうですね。
ところで、この[K18]はもう一歩進めないといけないと思っているのですが、
今よくわからない状態にあります。
大乗仏教では、ここで私が書いているのと違って、「諸法無我」をもっと積極的に打ち出しているように感じられます。
例えば、般若心経でも「・・・是諸法空相・・・」ときますものね。
しかも、大乗仏教では、諸法無我だからこそ、大慈大悲心だ、という積極的な働きの方に話がつながっていくキーになるのが、この「諸法無我」。
つまり、この点まで整合性をつけていこうとすると(上記ダライラマの言葉もありますので)、釈尊に全面的に敬意を表しながら大乗仏教の基礎を作り上げた龍樹尊者がどう理解したのかが問題になってくる。
そこで、「中論」を取り寄せたところなのですが、ちょっと読んでみたら、難解でまるで歯が立ちません。ウォーー?????。
現在は、今後の中心カテゴリーになる『窓は空・空は窓』の立ち上げ準備で手一杯です。また、そちらでも宜しくお願いします。
[KC18-1-2] 投稿 洲崎清 | 2008年7月 3日 (木)
>《誰が離れるのかな?》
誰もいませんが・・・。
>《そことはどこ?》
五蘊。
え、無色無受想行識ですって。
はっはっはっ。そうですね。
全然話が通じていないみたい。。。
誰もいないならなぜ離れる云々がでてくるのか?
>、「無常なるもの」「無我なるもの」であるがゆえに、それに囚われること(執著すること)が「苦」になるのであって、
ふーん、無常、無我で、、、
とらわれるということができるんですか?
ー
なんだか、あっちこっちいじりすぎで
簡単なものが不必要に難しくなっているのではないか
つまりおばけをつくっているのではないか??
という感じがします。
(まあこれはとうりすがりでのコメントで、あまり丁寧にみてないのでまちがっているとしたら、ご容赦ください。)
[KC18-1-2-N] 西方法界 | 2008年7月 4日 (金)
ちょっと、はずれちゃいましたか。失礼。
ヤフー掲示板の洲崎先輩の「煩悩の矢を抜く」の内容に最終的に収斂していくことは
私も異論はありませんので、以下にちょっと一部だけ引用させていただきます
(全文引用したいのですが、長すぎますので)。
『・・・この(煩悩の矢を)抜くと言う意味は、・・・もちろん体験で知るしかないが、・・・
般若即非の論理でいうと、抜くとは抜かないこと、これを抜くと言う。・・・
・・・・抜かないことによって抜くということは・・・・・
たとえば、大拙の“わしは煩悩だらけだ。”と言うのは、大拙は煩悩を煩悩と観ているわけだが、彼の場合そこには作意が無いということ。つまり、只、意識にのぼってきたイメージ、記憶、が心のスクリーンに見えて、・・・それがなんら“拡散”することなく、いわば智慧の光が当てられることによって(つまり只・あるがままの体験(awareness and equanimity)によって)消えていくわけである。』
現在、「枠組み」の転換中で、
新カテゴリー『窓は空・空は窓』の[M7]か[M8]くらいまで出来上がりますと、
従来の記述ベースではない記述ベースが出来上がり、
須崎先輩の「枠組み」に、より接近できると思っております。
そこで、ここはそのまままにして、ちょっとお待ちください。
そのほうが、話が早いと思いますので。
ここは、従来の枠組みを引きずりながら、
新しい枠組みへと転換する過渡的記述で、
しかもまだ未解決で説明できない問題もかかえております。
従って、この位置で話をすると、まさにおっしゃるとおり
《簡単なものが不必要に難しくなって》しまう可能性があると思われます。
[KC18-1-3] 投稿 洲崎清 | 2008年7月 5日 (土)
>従来の枠組みを引きずりながら、
新しい枠組みへと転換する過渡的記述で、
しかもまだ未解決で説明できない問題もかかえております。
ー
枠組みは体験とマッチして枠組みの意味あいが深まる(→知行合一)ということ
でしょう?
体と用との関係ににて、枠組みと働きがいかに整合しているかがポイントで、
それが自ずから然りと、ぴたっと決まるのが、、、法にそった歩み、ということになる
と思っています。
例の八正道も、道をきわめれば、自ずから八正道が現われ出る、というようなもので、その辺の整合を見ながら一歩一歩、歩をすすめるというのが大事と私は思ってます。
(悟りは現在進行形でなければならないと以前にHPのどこかで書きましたが、
そういった意味あいです)
この辺微妙でコミニュケーションがうまくいっているかどうかわかりませんが、
いずれにしろ、ご健闘をお祈り申し上げます。
[KC18-1-3-N] 西方法界 | 2008年7月 5日 (土)
おっしゃる通りなのですが、
こういった実態で、・・・・。
[KC18-1-4] 投稿 洲崎清 | 2008年9月25日 (木)
その後どうなったかなと思ってここにもどってきて、また斜め読みしました:
>ある方の御指摘で、阿含経を参究中なのですが、それはとんでもないことだ、
釈尊は「無常なるもの」「無我なるもの」から『離れなさい』、
それは移ろいゆくものであって、
「無常なる諸行、無我なる諸法」のなかに留まっていてはならない、といっておられる、
ということを、阿含経で明確に繰り返し、そう説かれている、それが最重要ポイントになっているのを確認、、、
1)これは阿含経のどこにそう書いてあるのですか?
2)あえて何かを言うとすれば、離れなさい、あるいは、留まっていてはならない、、という意味あいは
私なりには、私のHPにかいた例の「鏡の心」でとけている・あらわされているように感じますが、その辺はなにか見所・進展?などありましたか?
[KC18-1-4-N] 西方法界 2008年10月2日
夏からブログ活動をしばらく離れ、狭義の実生活に終始していました。
しばらく投稿を放置してしまったことをお詫び申し上げます。
まず、1)ですが、これは具体的にここにこう書いてある、という形で書かれている
のではなく、全体としてこのように書かれているように「ある意味で」「読める」という
ことです。
悟りの後で、しばらく法を説くことを躊躇された釈尊の説法は、すこぶる限定的・自制的であり、十二支因縁と四聖諦に基づき、苦からの解脱が説かれます。
それをじっと眺めていると、要するにこういっていると理解・要約できる、ということです。
この私の理解の当否はしばらく置いておく(私自身、もっと多角的に検討してみる必要があると思います)としても、「大乗仏教は、釈尊が直説したものか」という一般的問題があるわけです。
[注] 私の『偏見宗教サイト』中にある、
『月を差す指はどれか(曽我逸郎さんのサイト)』
曽我さんは現在、長野県上伊那郡中川村の村長をされ、
がんばっておられますが、大乗仏教は釈尊直説ではない、という立場
(上座部仏教の立場)に立たれております。
大乗仏教の立場では、それは「あたりまえ」としていますが、実際に南伝の教典に触れると、表現的にも理論的にもどのように一貫しているのか、そう簡単ではないものを感じます。
すなわち、そこで自分なりに大乗の立場をしっかり意識し、再検討しておかなくてよいのか、という疑問が生じます。
例えば、釈尊は、大乗仏教のように、「空だから、・・・」というような説き方をしていません。しかし、大乗仏教では「空」は教義の中心概念です。
あるいは、釈尊は、「苦」を問題にしていたのに、大乗仏教ではいつの間にか「煩悩」を問題にすることに変わってしまっている。
釈尊の説き方は「離れる」ということ、解脱するということが主旋律をなすのに対して、
大乗になると、慈悲にもとづく菩薩行、出世間というところに身を置きながら、
それだけにとどまらずに、世間に積極的に働きかけていくという旋律が強く出てきます。
そういった一見乖離しているようにも見えるところをしっかり埋めて、「大乗仏教」は確かに釈尊直説の立場なのだとしっかり理解する作業が今までの日本(および中国)仏教では(少なくとも自分自身の中では)欠けていたのではないか、という気がしてきました。
チベット仏教では、しっかりした位置づけ・関係づけをしていることがダライラマの著書を読むとわかります。
現代社会は、ネットで繋がっており、南伝仏教もチベット仏教も、ある意味で日本仏教と同じように我々の目に触れる機会があるのですから、それらを広く学んでいくのがよいと思います。
しかし、そうすると相互間の関係如何、ということが同時に問題になってきます。
この関連で現在問題意識を持っているのが、一方で洲崎さんが関わられておられる「ヴィッパサナ」すなわち「観」の立場です。
これは、大乗仏教でも、「般若心経」は「観」自在の立場であり、共通です。
ここを大いに掘り下げなければなりません。
しかし、他方「大乗仏教」には「観」だけではなく(もちろん「観」とともにでしょうが)、「意」を強調する流れというものがあります(「観ずる存在」であるだけではなく、「意思する存在」へ)。
密教の三密(身密・口密・意密)などは、より「意」に関係することであり、
また浄土門仏教の阿弥陀如来の「(摂取不捨の)誓願」なども「意(大乗的意思)」に関係することのように思えます。
「洞山の五位」の第三位以降も、より「意」に関係しているように見受けられます。
洲崎さんがもう一方で問題にしておられる、「華厳・菩薩の住居」という問題ではこの方向が色濃く現れてきます。
すなわち、「観」とともにそれと並んで、「意」の方向の追求の問題があります。
こちらは、より大乗仏教的で、この辺の位置づけが、南伝仏教と北伝の大乗仏教の理解の分かれ目に関係し、そこが釈尊の説かれた仏教をどう見るかという点と繋がっているように思えております。
最終的には、釈尊は「空」を説いたと見ることができるといえるなら、大乗仏教は釈迦直説といえるということがポイントなのではないかと思っております。しかも「離れる」だけでなく、「積極的に関与する」という方向に「空」がとらえられていかなければなりません。
ここに、竜樹尊者(ナガールジュナ)は、釈尊をどうとらえたのか、また自分は釈尊をどうとらえるのか、という問題が浮かび上がってきます。
まだ問題意識の段階で、具体的に理解を通したという段階にまでは至っておりません。
この問題は、大乗仏教では空観で、一本筋が通ってくること、しかもそれは『釈尊のところから』そう理解されることという、中国・日本(北伝)仏教にとっては、当たり前の前提とされてきたことを、南伝仏教に接するに当たり、改めて意識的に再確認するということを意味します。南伝仏教では、その「当たり前の前提とされてきたこと」を認めていないのですから・・・・・。
[後記]
ここに書いたのと大差ありませんが、【窓は空・空は窓】カテゴリーの [M13] に
同様のことを書き加えました。
今のところ、こんなふうに問題が繋がってきておりますので、また御教示のほど宜しくお願い致します。
[KC18-1-5] 投稿: 洲崎清 | 2009年6月10日 (水)
ぼんやりしていて西方さんのコメント今日まで読んでいませんでした。
>>>「無常なる諸行、無我なる諸法」のなかに留まっていてはならない、といっておられる、ということを、阿含経で明確に繰り返し、そう説かれている、それが最重要ポイントになっている、、、
>>1)これは阿含経のどこにそう書いてあるのですか?
>具体的にここにこう書いてある、という形で書かれているのではなく、全体としてこのように書かれているように「ある意味で」「読める」ということです。
なんと!
>自分なりに大乗の立場をしっかり意識し、再検討しておかなくてよいのか、という疑問が生じます。
そりゃそうだ。(誰でもそうでしょう。やはり縦横斜めにチェックしないと落とし穴はそこいらじゅうにありますからね)
>例えば、釈尊は、大乗仏教のように、「空だから、・・・」というような説き方をしていません。
大乗では本当に「空だから、・・・」という説きかたをしていますか?概念的理解で話を進めるというよりも、法の道をあゆむというのに、もともとの空の体験的理解(あえていうなら悟り)がどうか、というのがあるのではないですか。
>あるいは、釈尊は、「苦」を問題にしていたのに、大乗仏教ではいつの間にか「煩悩」を問題にすることに変わってしまっている。
私の見る限り、両者はほぼ同義で、あえていうなら煩悩があるから苦があるというのでいいのでは?
>南伝仏教もチベット仏教も、ある意味で日本仏教と同じように我々の目に触れる機会があるのですから、それらを広く学んでいくのがよいと思います。
しかり!
>「観」とともにそれと並んで、「意」の方向の追求の問題があります。
私は観から意(智慧の働きのひとつの現れ方)が生まれてくるというもので、これは戒定慧(のプロセス)に統合されるとみます。
>こちらは、より大乗仏教的で、この辺の位置づけが、南伝仏教と北伝の大乗仏教の理解の分かれ目に関係し、そこが釈尊の説かれた仏教をどう見るかという点と繋がっているように思えております。
私自身は大拙の例が親しく、http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html
に書きましたが、大智から大悲へ、と言う流れが見られ、それと小乗ー大乗の流れがほぼ対応するように感じています。
>この問題は、大乗仏教では空観で、一本筋が通ってくること、しかもそれは『釈尊のところから』そう理解されることという、中国・日本(北伝)仏教にとっては、当たり前の前提とされてきたことを、南伝仏教に接するに当たり、改めて意識的に再確認するということを意味します。南伝仏教では、その「当たり前の前提とされてきたこと」を認めていないのですから・・・・・。
「空観で、一本筋が通ってくること」、、、あるいは「当たり前の前提」と簡単におっしゃいますが、まさか概念的な意味あい、つまり頭だけでの理解で話を進めようとしているのではないでしょうね。
[KC18-1-5-N] 西方法界 | 2009年6月12日 (金)
>ぼんやりしていて西方さんのコメント今日まで読んでいませんでした。
このあたりの時期は混乱の頂点にいて、
自分でもどうなっていたのかよくおぼえていないのですが、
今は、だいぶ落ち着いてきました。数えると、8ヶ月過ぎてますね。
現時点では、自分の答え方が固まりましたので、必要のあるところをやりなおします。
>>>「無常なる諸行、無我なる諸法」のなかに留まっていてはならない、といっておられる、ということを、阿含経で明確に繰り返し、そう説かれている、それが最重要ポイントになっている、、、
>>1)これは阿含経のどこにそう書いてあるのですか?
すいません。混乱中だったので、以前の段階では、しっかり答えられていませんね。
私の使った増谷文雄訳 筑摩書房 「阿含経典」(現在、古本のみ)の、例えば2巻P24~P25からの
抜粋で。
・・・色(肉体)は無我である。・・このように観て、色を厭い離れる。・・・・
・・・受(感覚)は無我である。・・このように観て、受を厭い離れる。・・・・
・・・想(表象)は無我である。・・このように観て、想を厭い離れる。・・・・
・・・行(意志)は無我である。・・このように観て、行を厭い離れる。・・・・
・・・識(意識)は無我である。・・このように観て、識を厭い離れる。・・・・
この直後に、上記の無我を無常に置き換えた同じ説法が続きます。
>大乗では本当に「空だから、・・・」という説きかたをしていますか?
般若心経の「是諸法空相 不生不滅 ・・・・是故空中 無色無受想行識・・・」
のところ念頭に置きながら、書いたつもりなのですが・・・。
>「空観で、一本筋が通ってくること」、、、あるいは「当たり前の前提」と
>簡単におっしゃいますが、
>まさか概念的な意味あい、
>つまり頭だけでの理解で話を進めようとしているのではないでしょうね。
ここは、概念的なものと空その他の事柄が深くかかわって、
自分でもどこをどう使っているのかわかりませんが、
少なくとも最終的には、それなりの概念的整理も伴わないとすっきりしないのではないのか、という感じがします。
要するに、中観派の空観ないし中道の教義と唯識派の唯識をどういう関係で位置づけておくか、
どちらも必要になるわけですが、
根元のところで、何も「ない」という中観派の捕らえ方と、
ただ識だけが「ある」という出発点に立つ唯識が、
究極的なところで、どう調整されて位置づけられるかという問題です。
そして、ここが明確に処理されていることが、他の問題への理解に影響を与えるので、
ここだけの問題にとどまらない面があると思います。
>>「観」とともにそれと並んで、「意」の方向の追求の問題
これは、まだ参究中で、よくわかっていません。
どっちも、いい加減、というか、中途半端な状態です。
問題意識は、「意」が五位の「第三位以降」に見られるような
「大悲心の火の玉」のようになっていく場合、
それは精神の集中と思えます。
他方、「観」を維持するっていうのも大変な集中が必要な気がします。
これ、両立するのかな、という問題。
それとも、ある段階まで、「観」に力点をおいて」進んで、煩悩を除いておいて、
その上で、その後の段階として「意」に集中していくことになるのか・・・。?????。
[KC18-1-6] 投稿: 洲崎清 | 2009年6月12日 (金)
この元の文:
釈尊は「無常なるもの」「無我なるもの」から『離れなさい』、それは移ろいゆくものであって、
「①無常なる諸行、②無我なる諸法」のなかに留まっていてはならない、といっておられる、
ということを、阿含経で明確に繰り返し、そう説かれている、
それが最重要ポイントになっているのを確認して、現在愕然としております。
が気になって、しつこいようですが、、、もう一度。
ーー
>>>>>「無常なる諸行、無我なる諸法」のなかに留まっていてはならない...
>>>>1)これは阿含経のどこにそう書いてあるのですか?
>>>具体的にここにこう書いてある、という形で書かれているのではなく、全体としてこのように書かれているように「ある意味で」「読める」ということです。
>>なんと!
>増谷文雄訳 筑摩書房 「阿含経典」(現在、古本のみ)の、例えば2巻P24~P25からの
抜粋で。
・・・色(肉体)は無我である。・・このように観て、色を厭い離れる。・・・・
。。。
・・・識(意識)は無我である。・・このように観て、識を厭い離れる。・・・・。。。<
ーー
まさか「色(識、云々)を厭い離れる」を「無我を厭い離れる」と読んでいるのではないでしょうね???
(-> こっちが愕然!)
はやいはなし元の文:
>釈尊は「無常なるもの」「無我なるもの」から『離れなさい』、それは移ろいゆくものであって、
「①無常なる諸行、②無我なる諸法」のなかに留まっていてはならない、
は私にとってまったくトンチンカン(意味をなさない)なのです。
>>大乗では本当に「空だから、・・・」という説きかたをしていますか?
>般若心経の「是諸法空相 不生不滅 ・・・・是故空中 無色無受想行識・・・」
のところ念頭に置きながら、書いたつもりなのですが・・・。<
ムム、、、(あるいは無無かな?)
これはそういう体験のあった、つまり行深般若波羅多「時」(の空相)においてでしょ?ですから、
「空だから」という「論理」ではなく、「空の体験において」そうであるということでしょ!
この辺のともすると繊細で見落としちゃうようなところに気づいてないと根本のところがどうか、と言う気がしてしまいます。
そこで、、、
>>「空観で、一本筋が通ってくること」、、、あるいは「当たり前の前提」と簡単におっしゃいますが、
まさか概念的な意味あい、つまり頭だけでの理解で話を進めようとしているのではないでしょうね。
>ここは、概念的なものと空その他の事柄が深くかかわって、自分でもどこをどう使っているのかわかりませんが、
少なくとも最終的には、それなりの概念的整理も伴わないとすっきりしないのではないのか、という感じがします。
ここで「出直し!」、、、といいたいけど、
それはともかく、上述のコメントを確認していただきたいーー時間がいくらかかっても。
ということで、このあとまだ続く西方さんのコメントを読む意味がないと判断します。
意を汲んでいただければ幸いです。
いいたい放題ですみませんがあしからず。
[KC18-1-6-N] 西方法界 | 2009年6月12日 (金)
そうですね、わかりました。
ありがとうございました。
[KC18-1-7] 投稿: 洲崎清 | 2009年6月12日 (金)
要は最初にここでコメントした、、、
>釈尊は「無常なるもの」「無我なるもの」から『離れなさい』、、、
>諸法が無我であることこそが、我々の苦の原因なのであるから、そこから離れなければならない、離れなさい、、、
誰が離れるのかな?
そことはどこ?
ー
あるいは、
>、「無常なるもの」「無我なるもの」であるがゆえに、それに囚われること(執著すること)が「苦」になるのであって、
ふーん、無常、無我で、、、
とらわれるということができるんですか?
ー
、、、というのから始まって、私は一貫しておかしいよ、といっているのです。念のため。
[KC18-1-7-N] 西方法界 | 2009年6月12日 (金)
おしゃられる意味はよくわかりました。
ありがとうございました。
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以下は、投稿文のみで、記載が重複します。
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