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[M5] 執著からの解脱・人情・安心

--過渡的妄想① --

様々な執著から解脱して自由にならないと、
自然な人情が発露して来ないように思われます。

自然な人情が発露しなければ、
心の痛みが残ってしまって、
心の奥底からの安心には繋がらないように思われます。

この種の心の痛み(そして悲しみ)は、
「短絡的な意味での、自己の心を空ずることによって」
解脱する(解脱できる)のではなく、
痛み・悲しみを共有し、
共有された痛み・悲しみから共に解脱しよう
としなければならないのではないでしょうか。

そこが、大乗性の根拠でもあり、大乗性のあり方でもあるように思われます。
大悲心は、自己の安心のために起こすものではないけれども、
大悲心を起こすことなくして、自己の安心はありえない、と考えられます。

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[MC5-1-1] 投稿  ここ見て | 2011年2月27日 (日)

こんにちは。鬼和尚の仏教勉強会の記述を読ませていただきました。
私はよく鬼和尚さんのブログを読ませていただいているのですが、
鬼和尚さんの回答の意味がここを読ませていただいてよくわかりました。
ここの話を見られるといいかもしれません。
http://hachisu-net.com/issei/kouen2.html
いいご縁となると思います。

[MC5-1-1-N]  西方法界 | 2011年2月27日 (日)

親切なご指摘と紹介ありがとうございます。
私も、パーリ語経典である「阿含経」を読んで、
大乗仏教との違いに愕然と致しました。
ご紹介のホームページを拝見すると、
社会の中における仏教のあり方も随分違うことがわかります。
参考にさせて戴きます。

[MC5-1-2] 投稿   ここ聞いて | 2011年3月20日 (日)

ご返事いただきありがとうございます。
もう一つここを聞いていただければよいかもしれません。
http://onedhamma.cocolog-nifty.com/
「法話を聞く」という項目が所々に多数あります。

[MC5-1-2-N]  西方法界 |  2011年3月21日 (月) 

ありがとうございます。
参考にさせて戴きます。

[MC5-1-3] 投稿: ここ見て | 2011年3月27日 (日)

ティクナットハン師(ベトナムの禅僧)、エックハルトトール師(?)などのかたの動画(youtube)を見られるのもいいのではないでしょうか。
また、タイの僧、プラユキ・ナラテボーさん(日本人)の話に次のような内容のものがあります。
「 「念」ですが、実はこの「念」という言葉がくせもので、日本で「念」というと一般的に「念ずる」、すなわち、「こうあってほしい!」と何か特定のことを強く心に思う、願う、祈るというような意味になっていますよね。日本の仏教関係の本を読んでも、「正念」を「正しい思いを持つこと」などと説明されているのが一般的です。ちなみに手持ちの国語辞典には「正念」の説明として、
<仏教語> 正法を思念すること。一心に念仏すること。往生を信じること。
と、記されています。・・・・・しかしオリジナルのブッダの教えにおいては、「正念」すなわち「サンマー・サティ」とは、「正しく今ここのありのままの心身における現象に気づくこと」とされています。

 つまり「念」とは、「思いを持つこと」でも、「信じること」でもなく、それらの思考や思想、信念をも含めた今ここのありのままの心身現象について油断なく気づく作業のことを言います。」

「仏教では「十二因縁」、または「十二縁起」と呼ばれる教えがあります。これはブッダが曇りのない明晰な意識でもって認識した苦しみの生起のプロセスについて説かれたものですが、私たちも瞑想などの訓練を行い、今ここの瞬間に生じてくる現象を繊細に観察できるようになってくると次第に観えてくる事実です。
 十二因縁の始まりは「無明」、すなわち無自覚であることです。それに端を発し、瞬時に十二の連鎖反応が起こり、
「老死や憂悲苦悩」に行き着くとされます。この十二の連鎖の中で特に重要なラインは七番目の「感受」から八番目の「渇愛」、そして九番目の「執着」へとつながるラインです。七番目の「感受」というのは、感覚器官に外界・内界の対象が接触することによって喚起される原初的な感覚印象で、微細な身体感覚として体験されます。そしてその微細な感受を受け止め、それをどう解釈し、どのように対応してゆくかに私たちの自由意志と選択の余地が生まれます。次の「渇愛」は「感受」に対して取捨選択的に働く衝動的な意思作用です。快の感受には欲望が、不快の感受には嫌悪が、中性の感受には忘却や退屈といった感情傾向が連鎖してゆきます。」
瞑想による観察が大事だと話されているのだと思います。また、その方法は瞑想(手動瞑想、歩行瞑想)をすることといわれています。

ご存知でしたら、読み飛ばしていただければと思いますが、何かのご参考になれば幸いです。

[MC5-1-3-N] 西方法界 | 2011年3月27日 (日)

上座部仏教系の方とお見受け致しますが、いろいろと御助言を戴き、ありがとうございます。私は、日本仏教の伝統的立場、すなわち大乗仏教系の俗諦(言語化された教義体系)の中でこれまで歩んで参りました。大まかには、プロフィールに書いておきました通りです。

禅宗の内部的教義は、上座部仏教系とはまた異なる意味で、釈迦直伝であると位置づけますので、これを大乗仏教の系列に入れていいかどうかという問題は多少あるでしょうが、般若心経を常用していること(大乗仏教的俗諦である『空』を中核に据えている)、その他大乗仏教圏の中で歴史的にさまざまの禅的俗諦(?不立文字が中核教義である禅でこういうのはおかしいのですが、禅問答などの広義の禅的文化をさす)が形成されていることなどからみて、一応そのようにいってよろしいかと思っております。

但し、私は以下、すなわち

カテゴリー『窓の外は空』中の、
[K18] 西方法界、長年の誤謬に愕然とする   
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_769d.html

で、上座部仏教系と大乗仏教系をどう位置づけていくかということに触れております。
ここに書いてあること、すなわち両者を統合的に見る位置づけ(但し、大乗仏教的立場からといえば、そうであるかもしれませんが)は、その後多少の修正箇所はあるものの、現在も維持されております。

のみならず、私は体質的に『こっちが正しい、あっちが正しい』というタイプではありません。むしろ、それとは逆に、格別うさん臭いものは別として『こっちもあっちも正しいもの』として理解していくタイプです。

タイプだということの中には、いろいろな意味が含まれております。
真理は一つのはずだから、ということもあります。
また、洋の東西を問わず、宗派の違いを問わず、真摯に真理を追究してきた大先輩を等しく信頼し、尊敬するという基調が私の体質の中にはあります。
また、自宗が正しく、他宗は誤っているという理解は、一見『真理問題』の形をとりますが、多くの場合、その背後で自我的立場がうごめいているおそれがあるという警戒心を常に持っております。
逆に、どういう文化的俗諦から最終的真理(真諦)に到達しようとも、真にそういう道筋を歩んでいる場合には、他宗・他派の教義であっても、その意味内容が真にわかれば基本的にはそれぞれの宗教宗派内で、だいたいのことはそれなりに手当がなされているものである、と思っております。
どこかに同じことを書いたと思いますが、一方で「ペンシル」といい、他方で「鉛筆」といっても、そのものを知らない人は、表現が違うのだから別物と受け取るでしょうが、そのものを知っている人は、どちらの表現でもかまわないし、どちらの表現系(俗諦系)でも扱うことができるでしょう。
 (もっとも、この真諦・俗諦という大乗仏教的用語を用いた言い回しは、上座部仏教系の方には馴染まないかもしれません。???大乗仏教系でもどの程度通じるかわからないくらいですから・・・・もちろん、私が誤っているということもありえます。)

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  御指摘の「感受」の問題に移ります。
 
大乗仏教系であると、これは般若心経中の「五蘊(ごうん)」、すなわち、「色受想行識」を空ずるという位置づけで通常とらえます。
 このうちの色を除く「受想・行・識」が無色界(精神界)の問題であり、私の理解によると、無色界を空じていく順序は、この順序の逆で、①識(意識)②行(意思)③受想、ということになるのだと思います。御指摘の「感受」の問題は、大乗仏教的に位置づけますと、
この③受想をいかに空ずるかというところに相当します。

他方、これも私の理解ですが、阿含教典系との対応でいうと、
まず、色(色界)を空じた(空ずることができた)ところが空無辺処、
次に、無色界に入って、
上記①の識(意識)を空じた(空ずることができた)ところが識無辺処、
上記②の行(意思)を空じた(空ずることができた)ところが無所有処、
にあたろうかと思います。
そして、この先がちょっとよくわからないのですが、
上記③の受想を空じた(空ずることができた)ところあたりと
非想非非想処、想受滅をどうとらえていくかは、まだよくわからないところです。
特に、非想非非想処は、②の行(意思)の関数なのか、③の受想の関数なのかが、
当面の問題です。

ただ、おおよその大乗仏教的、禅的理解と阿含教典系との対応がつくように思います。
そして、禅などでも、③受想を空じ切れるのは、相当先(修行が進んだところ)とされているようです。

ところがです。
十二支縁起でみると、無明の次の第二支は②の行(意思)ですね。
そして、「感受」の問題、すなわち、≪ここ見て≫様御指摘の、『七番目の「感受」から八番目の「渇愛」、そして九番目の「執着」』というところでの、「感受」の問題はかなりうしろの方ですね。
そうすると、「想受滅」というときの、「受」と十二支縁起の七番目の「感受」というのは、多少異なる観念としてとらえることになるのでしょうか。

また、「想受滅」はある意味、最高位ですが、お釈迦さんは、そこから、再び「初禅(第一禅)」に戻られ、「第四禅」で、発涅槃されます(涅槃に旅立たれる)ね。

ここと、②の行(意思)とはどう絡むのか。
大乗仏教系的に言うと、最後は(究極のところは)、誓願(宇宙的意思)に極まっていく。
これは、個的意思が解体(したがって、個が解体)したところですが、最後のところは「意思」関係的といいますか、「意思」の関数なのですね。

上座部仏教系ですと、こういった教義概念ではとらえないのかもしれませんが、大乗仏教系的にとらえる私には、現在こういったことが理解の問題点としてあります。

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  但し、こういった理解の問題と修行ないし、そのものになりきるという問題(三昧の問題)とは、とりあえず別の問題であるという側面もあり、≪ここ見て≫様も当初からその問題を御指摘になられていることは承知しております。
 
  ただ、私は大乗仏教系で自分の一局の人生は終わるつもりでおります。
現在のところ、上座部仏教系に転ずる必然性の流れにはないように思いますし、それよりなにより、もうそんなことをしている時間もエネルギーも私には残されておりません。

自分の身辺の整理の最中であったところ、東北関東大地震と津波、そして原発問題。
今、本当にまいっております。この中で、一瞬、一瞬をどう現前・展開していくか(禅的表現に過ぎるかな?)、それが当面の私の宗教問題にほかなりません。

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  また、御教示のほど、宜しくお願い致します。
ありがとうございました。

[MC5-1-4] 投稿: 釈迦 | 2011年4月18日 (月)

この西方殿の阿含経典の解釈(悟りの行程の逆再進)を説明できるレベルの人は殆どいないでしょう、というより気づいている人や書物を未だ見た事がない。勿論、鬼和尚のレベルでは歯が立たない。しかし洋の東西を問わず、悟りや、光明を得て世俗に戻り菩薩を開始した人達(聖人)を解析すれば、全員、例外なくこの逆再進をしていることが分かるので、阿含も例外でなかっただけのことで、事実として分かるということである。

また釈迦の十二縁起はもっと大きく把握する必要があり、これは洋の東西を問わず、「人間が克服すべき十二の課題」として世界中の神話に登場する。中国では十二神将、ギリシャや西欧世界では、ヘラクレスの十二の苦難や北欧神話のオーディーンも同じ様に十二の克服課題を通過して、所謂、悟を獲得する。

釈迦はこれを釈迦的な独特の手法で描いていているだけのことである。勿論、干支や十二季節、十二星座も同じ様に、この十二の課題の宇宙的な表現であるが、それが人間と宇宙との相似を示している。よくよく研究すると、それだけでも面白い。ユダヤの高僧が、十二の石があある胸当をしているのを知り、その意味を聞くと、十二の克服をして光明を得た最高の僧の印だと、言っていた。どこもかあしこも同じだと痛感した。

ただし、仏教の十二縁起の場合は、これが克服の順番だと思ってはいけない。よく読むと分かるが、これは発生の順序であり、例えば、人間はなぜ生まれるのか?それは無明があるからだ・・・①番となり、最後に死⑫番がくるだけのことである。これらの12の克服課題の実際の内容を知るためには、所謂、密教に触れなければ本当の意味は分からない。

通常の経典は、洋の東西を問わず、一般人がおぼろげながらにも理解できるような世俗的な言語体系を使っている、だから、常に弟子には師が必要であり、師が本当の意味を実践を通して、教授してくれる。

しかし釈迦の「阿含」はさすがののものであり、よくこれだけ簡潔流麗に、さらさらと世俗的用語で言えるものだと恐れ入ってしまう。

イエスも言っている、「ドアを叩きなさい」と、そうしなければ「ドアの中には入れない」。・・・しかし秘密だからではなく、「人がなかなか叩かないだけなのである」。

[MC5-1-4-N] 西方法界 | 2011年4月18日 (月)

いつもありがとうございます。
[KC18-2-3] の「物心に偏らず」様(この方は、旧知でありながら、名前が七変化します、私には、内容ですぐわかります。)と同一人であるとお見受けいたしますが、そちらと同文で恐縮します。むしろ、他の読者向けということでお許し下さい。

 [KC18-2-1-N][KC18-2-2-N] でも申し上げました通り、
私は今、仏法の話をする気分にはなれません。
私は、今深く懺悔しております。

・・・例えば、福島の被爆した牛に対して申し訳がたちません。
放射能・放射線は、私達(牛も含む)の遺伝子を破壊します。
私は、原発に対して、その存在を助長するような生き方をしてきたと思います。また、原発の存在を選択しない方向の生き方をするだけの潜在的能力が与えられていたにもかかわらず、それをしてこなかったという罪があると思います。

しかし、少なくともいかなる意味においても、牛にはそのような罪はありません。
私もなにがしかの被爆を既にしているでしょうが、福島の牛にはもっと強い被爆をさせてしまいました、あるいは、今も被爆させ続けています。
私は、原発の存在に何らかの影響力を持ちうるものとして、原発の存在に何の影響力も持ち得ない福島の牛に対して、土下座して謝らなければなりません。

原発は、なお未だ制御が及ばず、どうなるかわからない状態にあります。
福島の牛に限らず、同じようなことがいえる無数の事柄があります。

  そんな次第で、せっかく御投稿戴きましたのに、正面から反応出来ませんことをお詫び申し上げます。どうか、御容赦下さい。

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