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[K7]洞山の五位・不完全現代語訳

[読者の方へ]

 洞山の五位が、ネット上にありませんので、見たい人がいつでも見られるように、
不完全ながら、
私が現代語訳したものをのせておきます。
(但し、臨済宗において、最後の調べに使われるほどのものですから、(私が)そう簡単に読み解けるものではない、ということを御承知おき下さい)。


 ネットで検索してこの記事を読まれる方のために記しておくと、
《西方法界》というのは、ブログの主である私の仮名なので、その名前での記述は、真偽あまりアテにはなりません。それ以外は、皆さん御存じのビッグネームですから、充分信用のできるものです。特に名前入りでないところは、その必要はないという判断から、西方が勝手に書いています。

 
[K6]の読み下し文とこの[K7]の現代語訳(「窓の外は空」カテゴリー内)を、
別々のウィンドウとして開き、切り替えながら対照して見ていくと読みやすく、
わかりやすいかと思います。


=============================================================
  丁寧な訳はできないので、できるだけ間違えないように注意しながら、漢文の部分的にわからないところは、飛び越えて(無視してごまかして)大意を記してあるところがあります。

以下、③④⑤は、鈴木大拙・山田無文の両ビッグネームのコメント・あるいはそれに沿って書いてあります。他方、①②については、充分な資料がないため、未熟眼の西方法界の理解を全面に出して、意味が自分なりに通るように大胆に訳しておりますので、内容的に全く誤っている可能性もあります。ご注意下さい。

             
洞山良价和尚五位の頌

[大意]

① 正中偏(正の中に偏がある)

 真夜中(飛び込んできた正のまっただ中)
  そこは月明かりのさす前の真っ暗闇だ。
     しかし、全く、おかしいとも
思わないのだ、
  (正と偏が出会っていながら、
  それ
(正の中に偏があること)がわからないことを。
 ≪(訳者補充)従って、困ったことに≫密やかに過去の(=正のなかに飛び込んだ
 
とき美しい記憶に浸り続けることになる。

   大死一番、飛び込んできたところ、それがこの『正(平等)』というところだ。
  この『正(平等)』というところは、真っ暗で、なんにも見えないところだ。
  煩悩もなく、菩提もなく、 生死もなく、涅槃もない。
  とにかく、底も見えないような、スッカラカンのところだ。

  ここに飛び込んできたのは、たいしたもんだ。立派なもんだ。
  しかし
そんな真っ暗なところを死守して離れないならば、
  それは死んだ禅というものだ。
  三、四十年やっていても、独覚のままだ。大馬鹿者だ。
 
平等真智は、わかったといえるかもしれんが、  《(訳者補充)とうてい》万法無礙の
 妙智を出すことまではできないぞ。
  寂静無為のところは居心地がいいかもしれんが、ちょっとでも差別の局面になると、
  まるで力が出ず、いきずまってしまうぞ。
 そこで、この重病を救うために、次の偏中正がたてられておる。

② 偏中正(偏の中に正がある)


  正中偏で長い時を
費してしまったが、やがて偏の鏡(古い鏡)に気づく。
はっきりと偏の鏡(
古鏡)と向かい合う。
しかし、そこで直ちに真理に出会えるわけではない

向こう(外)にあるものの影が鏡(頭)に映っていると見誤る迷路に陥ることを、
どうしたら乗り越えることができるの
だろうか。

 
《注意》 事柄の理解に関わるところで、どう意味をとるのか、たいへん難解。
              誤っているかも知れない。


 修行者が、
もし正中偏の一位だけに腰をおろしてしまえば、その智というものは、真実に背き、見処は偏った活きていないものになる。

 それ故、
上根の菩薩は、《(訳者)そのようなところにはとどまらず、常に動中でいろいろな差別の境涯に身をおいている。《(訳者)この、動中でいろいろな差別の境涯に身をおくということは、》目の前にある、さまざまな差別の相(尊卑堂閣廊廡、草木山川)に出会って、それは自分の本来の面目だ、と参究していくというような具合にだ。

 あらゆる場合に、このように観照して、歳月をかさねていけば、自然に向こうにあるもの
は皆、自分の一枚の宝鏡となり、自分また、向こうにある物の一枚の宝鏡となる。
  道元禅師のいわれる「自己を運びて万法を証するは迷なり、万法来たりて、自己を証するは、悟りなり」、ということは、このことをいうのだ。

  ここにおいて始めて、心身脱落、脱落心身ということになり、また、それは、両鏡(
正を映し出す鏡と偏を映し出す鏡)相照らして、中心一点の影像なし、ということになり、銀椀(正を映し出す鏡裏に雪(偏を映し出す鏡を盛る、ということになる。これを宝鏡三昧という。「如来は目に仏性を見る」と、涅槃経でいっているのも、このことだ。

 この三昧に入得するとき、
一無位の真人=無相の自己(大白牛児)を見失うことはなくなる。ここに、平等性智が、目前に現出する。そして、もうここにあるのは、ただ一乗だけである。中道実相、第一義諦というのは、このことだ。

(しかしながら)学者、もしまた、この田地に到って、それで満足しているならば、依然として菩薩頂堕の深坑にあるといわねばなるまい。
それは、なぜか。まだ菩薩の威儀がわかったとはいえないからだ。仏国土の因縁がまだわかっていないからだ。
そこで、祖師は、この患難を救おうとして、更に、正中来の一位を設けている。



③ 正中来(正の中から出て来る)


《鈴木大拙》 ここでの『正』は、前二位の『正』と同じに解してはならない。「正即偏」「偏即正」のど真ん中、ということだ。第三位は、ひとつの転位の場であって、これまでの英知的なものが意志的なものに転じ、智慧が生活に転位する。つまり、「ことば(ロゴス)」が肉体を帯びてくるのである(訳者注・・ヨハネの福音書1章)。

《(訳者)悟るには悟ったが、悟った以上そんな悟りなどというものは、》塵、埃のようなものだ。そんな塵、埃があるようなところからは、出ていこう。
それが、これからの路(悟後の向上出身の一路)というものだ。
そして、悟りのことなど、過去のもの(諱)として、そんなものに一切関わりを持たなくなるならば、偏中正(前朝=以前の政権)よりもはるかに力量が勝っている。


《注》 ここでは、『諱(いみな)』の意味がなにを意味するかが、キーになる。訳者は、上記のように受け取った。

 この一位、上乗の菩薩は、(英知的意味での)悟りが到達点であるとして、そこにとどまるようなことはしない。
 英知的意味での悟りの跡形を消して(無巧用海中)、無縁の大悲を起こし、四弘清浄の大誓のもとに、上求菩提・下化衆生の法輪の実践に励む。これが、向去中の却来(行きながら、来る)、却来中の向去(来ながら、行く)といわれるところである。

しかしながら、さらに明暗雙雙(双双)の次元があることを学ばなければならない。
そこで、また次に、兼中至の一位が設けられている。


《注》 ③は、鈴木大拙の解説を見ながら、それを取り入れるような形で、訳者が
    書いております。


④ 兼中至
  (兼(=二つながら)は、正と偏。至は、核心=ど真ん中の局面?)


 自と他が出会ういかなる局面でも(両刃鋒を交えても)、絶対に、その出会いを避け
  る
というようなことはしない。
  菩薩(蓮)は、その身をいかなる出会いの局面の中にも(火中に)投じていく。
 避けることなく、真っただ中に入っていく。
 はからい(これこそ好手だ、などという意識)など、何もありはしない。

 ただ、さながらに(宛然として)湧き上がる大悲心(衝天の気)あるのみである。



この一位は、有力量の菩薩が、(英知的意味での)悟り(明暗不二)の法輪の鉾先を転じて、この娑婆世界の中で(紅塵堆裡・声色隊中)頭は灰まみれ、顔は泥まみれになって、七狂八倒する局面だ。それによって、あたかも蓮の花(悟り)を煩悩の
火中(娑婆世界)に投じると、その煩悩の火によって、その色香(悟り)が一層鮮明になるようなものだ。

手をブラリと下げ、十字街頭に姿を現す。外(はず)れているようで即しており、即していないようで、外(はず)れていない(途中にあって家舎を離れず、家舎を離れて途中にあらず)、果たして、これは凡なのか聖なのか、魔外・仏祖といえども、それはわからないだろう。

わずかでも、念(分別)を動かしてしまえば、もう踏み外してしまう(兎角亀毛)。全体作用そのものだ。もう一山乗り越えようとする者には、ゆっくり坐り込んでいるような場所はない。だからこそ、只々、さながら天を揺るがすような大悲心なのだ。


では結局、どうなのか。
さらに、兼中到の一位を知らなければならない。

   
《注》 ④は、鈴木大拙の解説を見ながら、それを取り入れるような形で、訳者が
       書いております。
   


⑤ 兼中到
   (兼(=二つながら)は、正と偏。到は、行き着くべきところに行き着く。)

「正」だの、「偏」だの、「悟り」だの、「迷い」だのという跡もない。
この曲調に誰が唱和してくれようか。
人間誰でも若いときは栄光を望む。上求菩提・下化衆生と精励刻苦する。
しかし、至ってみれば、畢竟元の素凡夫である。妄想を除かず、真を求めずだ。
どれ、今夜は冷えるから、炉辺で熱い茶でも入れて飲もうかい。
(この部分のみ・・・山田無文老師・碧巌録5巻P.123より)


 師(白隠禅師)、著語して曰く、

   徳雲の閑古錐、いくたびか、妙峰頂を下る。
   かの痴聖人を雇いて、雪を担って、共に井を埋む。

学者、もし洞山兼中到の一位を透得しようと思うなら、まず、この頌に参じなければならない。


《西方法界訳・・・あてにならない》
  
あの徳雲比丘のように、(英知的意味での)悟りを捨て去る修行をいくたび
  繰り返し、積み重ねてきたことだろうか。
  かくして、先端が丸くなった錐(きり)のごとく、悟りの跡形は消えて、
  悟った人とも思われない。
       愚直と言ったらよいのであろうか、成果や見返りがあろうとなかろうと、
  そんなことには、まるで無頓着で、ただせっせ、せっせとやっておるわい。

《鈴木大拙:兼中到について》
  法界における一切の行動は、当為ということがなく、無礙自在です。統制とか義務とか責任とかいうものは、ありません。飢えては喫し、渇しては飲むという自然的・物理的・動物的行動があるのみです。作為的・技巧的なものは、朕跡をとどめない、ということになるのです。


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関連知識

【 四法界 】
  事法界
     無明底、すなわち我々が通常見て、世界はこういうものだ、と思っている、その
     世界である。デカルト的主観・客観の中に映し出される世界である。
     無明的ありあり底である。

    
《鈴木大拙》
       差別の世界、個々別々の世界、分別意識の世界。
       竹は竹、松は松


  理法界
     大死底人の目に映る世界、なしなし底である。一切が空の、絶対無の世界。


    《山田無文老師》
      すべてを『空』だとみていくのだ。
      あるように見えておるが、すべては『空』だとみるのだ。
    《鈴木大拙》
      すべてのものをその全体のところ、一のところで見るのである。
      個の世界が全く否定されてしまって、桜も梅も人間も牛も馬もない。
    《
洞山の五位本文
      大円鏡智の現れたところ
    《
足利紫山老師
      大円鏡智の現れたところ、汝が屋裡の法身仏(臨済)じゃ。
      いわゆる、理法界じゃ。
      自己の本性をいうのじゃ。無始以来、霊妙本有、不増不減の体性じゃ。


  理事無礙法界
     
《鈴木大拙》
       「色即是空、空即是色」を華厳の言葉で言うと、
理事無ということになる。
          
《山田無文老師》
                 是れ、文殊(智慧を象徴する菩薩)の家風

        
色即是空、空即是色。
        現実がそのまま空で、空がそのまま現実だ、と見ていくのだ。


     
《足利紫山老師》
        これは、宝鏡三昧じゃ。
        知らず知らずに、皆やっておることじゃ。
        飢えきたれば飯を喫し、寒ければ衣を添う。
        汝が屋裡の報身仏(臨済)じゃ。
        
理事無法界じゃ。
        
平等性智じゃ
        
五位でいうと、偏中正じゃ。

     
《西方法界》
        当ブログ『宗教の窓』カテゴリーのレベルでは、なんとかここまではわかっ
        たような気にはなれる(本当にわかったどうかは、別問題だが)。
        ある程度のイメージ形成ができる。
        ここまでは、即非の論理が使えるからだ。ここは、即非の論理の世界だ。
        しかし、事事無
法界は全くとどかない。想像で、それらしきものを
        描いても、結局それは理事無
法界内の理解に留まっている。
         
休歇体験をしたところで、理事無法界が本当にわかる。
        そこで、五位の偏中正までが完了する。そして、ここからが、菩薩だ。

  
  事事無礙法界
    
《鈴木大拙》
      
事事無法界を動かしている力は、大悲心に他ならぬ。
      華厳経中の四句「一中一」「一中一切「一切中一」「一切中一切」のうち、
      他の三つは、
理事無礙法界でわかるが、「一中一」だけは、事事無法界
      で始めて成り立つ見方である。

    
《山田無文老師》
            是れ、普賢(慈悲を象徴する菩薩)の家風
      空などという理論は、もうすべて超越して、事々一つ一つがそのまま仏、
      そのまま諸法実相だ。物でもなければ、空でもない。そのまま、一大光明
      を放っておる、と見ていくのじゃ。

    
《足利紫山老師》
      これは、理知用の働きじゃ。
      五位でいうと、正中来じゃ。
      
成所作智じゃ。
      華厳でいうと、
事事無法界じゃ、事事無法界の当体じゃ
      
汝が屋裡の化身仏(臨済)じゃ。自性の功用(働き)であるぞ。
      修行もここまで行かんと、衆生済度はできんのじゃ。観音・地蔵の如きが、
      この正中来にあって、衆生済度しておるのじゃ。
    《秋月龍
珉老師
      事事無
法界には、もはや理論も概念もとどかない。
      ここで、個は、はじめて真個となる。母は、子の痛みを自らの痛みとし、
      子の喜びは、自らの喜びとする。
      『万法に証せらるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむ
       るなり』の『自己・他己』の思想は、事事無
法界の禅体験的表現である。

【 四智 】
  大円鏡智
     すべてのものをありのままに現し出す智慧
     
《根拠=理法界参照》
        大死底=理法界。
     《山田無文老師》
        
第八識の阿頼耶識が、これに転ずる。

  平等性智(しょうち)
     自分だけが大切だ(自我)、というのではなく、自他共に平等に大切なのだ、
     ということを体現する智慧

     
《足利紫山老師》
        
理事無法界じゃ。
     《山田無文老師》
        
第七識の末那識が、これに転ずる。

  妙観察智
     自由自在に働く智慧
     
《山田無文老師》
        第六識の意識が、これに
転ずる

  成所作智
     なすべきことをなしとげる智慧
     
《足利紫山老師》
        
事事無法界の当体。
     《山田無文老師》
        六識中の前五識(
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)が、これに転ずる。
 
 

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